ご紹介西林院の由緒・沿革
のご紹介

山号:御所山|院号:西林院|寺号:専修寺

祭壇祭壇

浄土宗・西林院は、文明9年(1447)に 鎮蓮社西誉上人により創建されました。

その昔、この地には阿蘇大臣が左遷されて住んでいたといわれ、大臣が滞在していたころ、人々はお御所様といって敬っていました。その後、大臣は許されて当地を去りましたが、大臣の住んでいた館は、御所であるということで、一般の人は住むことが出来ず空き家になっていました。

たまたま九州肥前の西誉上人が夢の中で看瀧(たきみ)観音のお告げを聞き、長崎で唐伝来の看瀧観音を手に入れ、上人は、この観音様を護持して諸国を巡行されておりました。当地に来て宿を求めたところ、お御所の空き家をすすめられ、上人はこの地が看瀧観音にかかわりのある土地であることを悟り寺院を創設したと伝わっています。

看龍観音堂

看龍観音堂

第32世住職|原田益大上人

第32世住職|原田益大上人

西林院という名は京都大原の三千院の宿坊であった西林院の寺号を移したものであります。 現本堂は、弘化2年(1845)下の台地から現在地に移転されています。

久姫様のお墓

松平清康の妹である久姫様は、3才で母と生別した竹千代(後の徳川家康)を、岡崎城中で2年間心をこめて養育した、いわば家康の第2の母のような存在でした。

家康の大伯母にあたる久姫様は、西林院の第4世住職の身内であることから、久姫様の遺言で、分骨を当院に納め、廟を建てられ、家康からは朱印七石を与えられました。

久姫様のお墓久姫様のお墓1.久姫様の墓石。 2.新たに建てられた墓石。 3.西林院の墓地内に、新旧の暮石が並んで建てられています。

1561年(永禄4)の没後に建てられた久姫様の墓石は、代々の住職たちの手によって守られてきましたが、経年変化による暮石の劣化が進んできたため、平成に入り、旧墓石の隣に新たに久姫様の墓石が建てられました。

西林院・および周辺
地域の歴史

西暦 元号 事項
1428年 応永35年 畿内諸国の土一揆が蜂起し、京都市中も荒れる「正長の土一揆」飢饉三代松平信光(1403年~1488年・85才)は岩津城主となり、西三河を支配。
1467年 応仁元年 5月26日、細川(東軍)と山名(西軍)が京中に戦う。
1477年 文明9年 京都では十年に及ぶ応仁の乱が終結。 汝やしる都は野辺の夕雲雀あがるを見ても落つるなみだは (『応仁記』)…計らざりき万歳期せし花の都今何んぞ狐狼の伏土とならんとは… 5月1日創建 看瀧観世音菩薩
1690年 元禄3年 千体佛画修復
1697年 元禄10年 山門の鐘銘 鐘音声 功徳 現當二世 乃至法界平等利益 當院十七世重蓮社深誉上人龍屋和尚 大工岡崎領藤原姓安藤金右門尉宗次 天下和順日月清明風雨以時災禍不起国豊民安兵伐無用崇徳興仁 南無阿弥陀佛 右建立之意趣者 額田碧海賀茂三の方々の協力により建立 元禄拾暦 三州額田郡岩津村 閏2月18日 御所山西林院(山門の鐘銘に記載)
1699年 元禄12年 善導大師像 法然上人像寄進
1726年 享保11年 御本尊の阿弥陀如来尊像入佛
1745年 延亨2年 観音堂本殿一寄進 西林院中興上人 現在の本堂建立
1746年 延享3年 現在の本堂建立を発願され、9年間にわたり御朱印米と秋初穂を建立基金として積み立て、周辺の村々(遠くは林添村九久平村はじめ広域の村々)に建築の資材を募集する。 広く多くの方々のご協力を得て、1754年 宝暦4年9月、現在の本堂が完成。 現在から約270年前